富山大空襲
8月1日に久しぶりの富山の納涼花火が開催された。
この花火は空襲による犠牲者への鎮魂の意味も込められています。
昭和20年8月1日の深夜から翌日の未明にかけて、
米軍機が50万発のM50焼夷弾を投下し、富山市街地を焼き尽くしました。
米軍は、当時の人口の4倍もの数の爆弾を落とし、
人口密集地を焼野原にしました。
0時36分頃に最初の焼夷弾が呉羽山方面及び神明国民学校学区内に投下やがて五福及び田刈屋方面に火の手があがった。
続いて富山駅前、布瀬、稲荷町、裁判所方面が火災になると、富山市民は東京大空襲において採用された市民を袋のねずみにして焼き殺すという「あぶり出し戦術」を想起し恐怖におののいたという。
米軍は爆撃中心点を富山城址東南の大手町方面に設定し、
これを中心に半径約1・2キロを目標にした富山市市街に爆撃を行い続けました。
富山市は爆撃が続くにつれ火の海と化し、午前2時27分に空襲が終った頃には、12740発(1,465t)の焼夷弾が投下されていました。
米機は立山連峰方面へと離脱した後に南下し、静岡県御前崎辺りで日本本土を離れた後、午前8時頃から10時頃にかけて全機サイパン島へと帰投した。
目標地域1.88平方マイル (4.87km2)のうち1.87平方マイル(4.84km2)を破壊し、破壊率は99.5%であったと米軍によって報告されている。死者数は、富山市が昭和20年12月に米軍へ報告した資料によると2632人とあり、堀川地区でも67人、隣接の奥田地区でも50人と記録されている。
空襲による破壊率は全国の都市で最大となった。
富山市は日本海側第3の都市として位置づけられており、
軍需工場が集中していることが記されてた。
しかし、実際にこの空襲で狙われたのは市街地だったのはなぜでしょうか。
これは米軍が、工業地帯ではなく市街地の人口密集地帯を焼き払い、国民に精神的なダメージを与えることに重きを置いたため、工業地帯ではなく、市街地の人口密集地帯を焼き払うことに目的を変更したという指摘があります。
この空襲は軍関連とは無関係である民間人殺傷を目的とした空襲は、国際法で禁止されており、もしこの空襲が指摘されている通りの民間人殺傷目的の空襲であるなら、明らかな国際法違反となるため、現在も批判の声が根強い空襲の一つです。
同日に空襲を受けた八王子や水戸では避難の指示が出ていたため、犠牲者は数百人ほどでした。
しかし富山ではそのような指示はなく、戦時中の防空法制によって空襲の際に逃げることは禁止されており、
その場に留まって消火活動しなければいけないという教えが浸透していたため、それに従って留まる人が多かったことが大きな被害に繋がります。
もちろん逃げようとした市民もいましたが、警察や憲兵により、戻って火を消すように押し留められました。
8月1日夜10時ごろに空襲警報が発令されますが、暫くして警報が解除されてしまい、そこで市民の気が緩んだことも想像に難くありません。
また、富山に空襲が起こる前に、アメリカの飛行機が「近いうちに富山に空襲を行う」というビラを4万5000枚ほど撒いていたにも関わらず、軍や警察がそれを回収したため、そのビラが市民の目に触れることは少なかったのも
要因です。
更に空襲の前には、模擬原爆「パンプキン」も投下され多くの犠牲者を出しています。
我々はアメリカの行いを忘れてはならない
また、当時の国や軍の対応を正当化してはいけず、忘れてもならない
これらの事を忘れず再び同じことを繰り返さないように、覚えておかないといけない