富山県の日

職場で流れているラジオで、「5月9日は富山県ができた日だ」という内用の放送を耳にした。

今の形の富山県は1883年(明治16年)に現行の富山県の形として置県された。

ここで大切なのはただの置県ではなく、「富山県として再び設置された」という事である。

再びとはどうゆう事なのであろうか…

現行の富山県となるまでには多くの流れがあった。

年表を辿ってどのように変遷したか載せてみます。

1871年(明治4年)

7月14日 富山藩の領域(おおむね神通川流域)が富山県として置県された。

11月20日 金沢県礪波郡及び新川郡を編入

富山県を新川県へと改称 県庁を魚津とした。

1872年(明治5年)

9月7日 七尾県射水郡を編入

旧越中国全域が1つの県となった。

このとき県庁も富山へと移転した。

ここで現在の富山県の形となっているが、1876年の第2次府県統合により変化が生じた。

1876年(明治9年)

4月18日 第二次府県統合により、新川県が石川県に強制編入

このことをきっかけに分県運動が起こった。

1881年(明治14年)

5月 東部の越中自治党、高岡の越中義塾、石動の北辰社が合同し越中改進党を結成

12月19日

礪波郡出身の司法省役人、石崎謙氏が代表となり、「分県ノ儀」(分県の嘆願書)を

元老院議長、寺島宗則氏へ直談判

1882年(明治15年)

9月 有志を代表として、越中改進党幹事の米沢紋三郎氏と入江直友氏が上京し、

内務卿、山田顕義氏らに「分県之建白」を提出嘆願した。

先人たちのこれらの努めにより、1889年(明治16年)5月9日に現行の形に再編され

富山県が誕生し、今日まで至っているのである。

富山県にこのような変遷があったことに驚かされた。

私はもっと郷土の歴史に興味を持ってもいいかもしれないと感じた

皆さんも富山県の日を知って頂ければ幸いです。