現在大河ドラマで、「鎌倉殿の13人」が放映されている。
その中で中川大志氏が演じているのが、畠山重忠という人物である。
富山の楡原にはこの畠山重忠の墓所といわれる所がある。
墓所の近くには鎌倉の鶴岡八幡宮から分祀した八幡宮や重忠の菩提寺の
法華宗上行寺がある。
重忠の子・六郎が父の菩提を弔うため真言宗法雲寺を建立したといわれている。
この法雲寺が改宗改名し法華宗上行寺となった。
さて畠山重忠とはどのような人物なのであろうか
重忠は「平家物語」や「源平盛衰記」にて、三条河原での巴御前との一騎打ちや
馬を背負っての「鵯越の逆落とし」、鶴岡八幡宮での静御前の歌舞の伴奏など
武勇と教養の高さで知られ、また清廉潔白な人柄から「板東武士の鑑」と称されている。
その最後は北条時政・義時親子に謀られ、武蔵国二俣川で討たれている。(畠山重忠の乱)
その重忠の史跡がなぜか富山にある。
「細入村史」によると二つの話が伝わっている。
1つは重忠が病の源頼朝から妙薬『犀の角』の採取を命じられ、
神通川から生きた犀の角から削ったものを持ち帰ったが、
死んだ犀のものと疑われ楡原へ謹慎させられた。
その後その地で殺されたという話
もう1つは、頼朝が寵愛した丹後の局が身重となり、それを正妻・政子が恨み
殺そうとしたが、重忠が逃がしたため、政子に恨まれ、楡原へ隠れ住み、
その地で死んだという話である。
重忠が楡原を訪れたという文献は見当たらない
ではなぜこのような話が生まれたのであろうか。
実はこの地には戦国時代末期に能登守護・畠山義則の城があったという。
この伝説は畠山氏による先祖祭祀からと思われがちだが、
畠山氏は永禄12年に上行寺の大檀那となっているが実際は
先祖祭祀は法雲寺のころから行われている。
守護代が主君、畠山氏ゆかりの者を供養した事からか定かでは無い
歴史はなにが事実で虚構か計りがたいものである。
参照;朝日新聞 2021年4月9日刊 立野幸雄筆 ぶらりつれづれ
(楡原の「重忠伝説」を探る)より