ちょうど花見の時期ですね
患者さんの中にも花見をされた方が多くおられました
私も先日、花見に行きました。
花見をしていると、いつから行っているのだろうか
又、桜の木が川沿いに多いのはなぜかと思いました。
花見の歴史
『日本後紀』の記録に残っている最初の花見は、
812年『花宴の節』です。
第52代天皇 嵯峨天皇が開いたとされるお花見の席と言われています。
神泉苑という寺院で行われました。
それまでは花見といえば桜ではなく梅でした。
他にも有名なのが『吉野の花見』と『醍醐の花見』です。
『吉野の花見』は文禄3(1594)年、豊臣秀吉が徳川家康や前田利家、伊達政宗などの名だたる武将や茶人・連歌師などを伴い、奈良の吉野山で催した花見です。
参加者は総勢5千人、5日間にも及ぶお花見だったといわれています。
『醍醐の花見』は慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉が、醍醐寺三宝院裏の山麓で催した花見です。
豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆、約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として、知られています。
この頃は貴族や武士が行っており、庶民の間では広まっていませんでした。
又、花見は専ら川辺ではなく無く、寺院の庭や山、開けた場所で行っていました
今のように庶民に広まったのは江戸時代です。
農民がほとんどであった江戸時代では田畑が土地の多くを占めていたためていました。
そのため雨が降った時、川の氾濫は大きな問題でした。
それを解決するために、桜の植樹を進めたそうです。
桜の木が堤防に多い理由
桜は根が張り、土砂の流出を防げるため、堤防に最適だからです。
もちろん土手として堤防を築いていたのですが、それには手間もお金もかかります。
大雨による洪水で何度も流される土手をその度に直すのは非常に大変です。
そこで、当時の治水事業に頭を悩ませていた役人は、桜の木を植えてそこに大勢の人を花見客として呼ぶことで、土手を踏み固めてもらおうと思いついたのです。
江戸時代は、花見が庶民の間でもイベントとして定着していった時期でした。
そんな花見というイベントを広く民衆に提供し、
同時に地盤固めをしてもらえれば、幕府にとっても民衆にとってもいい話です。
江戸時代の花見
初めは三代将軍家光が上野の寛永寺に桜を植えました。
しかし、徳川の菩提寺である寛永寺でも花見の際に騒ぐ者が多く、頭を悩ませていました。
そこで八代将軍吉宗は飛鳥山を整備・植樹し桜の名所としたり、更に四代将軍徳川家綱が整備した隅田河畔の桜を増植するなどし、庶民にとって花見の場所が増えていき、行楽としての花見が浸透していきました。
こうして花見が広まり現在に至ったということです。
今の花見にも歴史ありという事ですね。