大石内蔵助と富山

赤穂藩の家老であった大石内蔵助良雄ら四十七士が、旧主である浅野内匠頭長矩の
無念を晴らすため、吉良上野介義央宅へ討ち入りした事件である。

実は大石内蔵助良雄と富山藩とは深い関わりがある。

良雄の父、良昭は家督を相続する前に夭折しており、良雄は祖父、良欽
の養子に入っている。
この良欽の弟、具知は加賀藩の奥村家へ養子に入っている。

具知は加賀藩から富山藩へ出仕し、初めは200石であったが、後に実家と同格の1500石へ
加増され富山藩の家老まで勤めている。

また、具知の息子の光重、直貞はそれぞれ同藩の家老の不破家、富田家へ養子に入っている。
更に二人の娘は蟹江家、姪の満(良雄の義姉、血縁上は叔母)は養女とし磯野家へ
嫁がせている。

大石家系図.gif2

磯野家は林義牧派遠州流茶道の継承家であり、現在も13代目まで続いている。

この磯野家では毎年12月14日の頃、「義士忌茶会」を開催し、300年も続いている。

また、この奥村家の流れの関わりだけでなく、実はもう一つのかかわりがある。
それは、良雄の妻、理玖の流れである。

この理玖の母は富山城の城主であった佐々成政の子孫である。

佐々成政系図

ここでもう一つ面白い話があるので話を広げてみる。

佐々成政の娘、岳星院は鷹司信房に嫁ぎ、鷹司孝子を生んでいる。
この鷹司孝子は3代将軍徳川家光の正室である。
更に5将軍徳川綱吉の正室、鷹司信子は、信房の孫(信尚〈孝子の兄弟〉―教平―信子)に
当たる。

赤穂事件は徳川綱吉の時代に起きました。

ある意味で徳川綱吉の大石内蔵助は遠戚に当たるのである。

血脈を辿ると面白いことが分かる。
どこでどう繋がっているか分からないものですね。

いつか義士を偲ぶ茶会にも出てみたいものである。

文章参照;朝日新聞 2019年10月7日刊
ぶらりつれづれ 元富山県立図書館長 立野幸雄氏筆